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鎌倉幕府が1192年から1185年に変わった理由!実は他の説もあった?

投稿日:2017年6月8日 更新日:

みなさんが学校の歴史の授業で学んだ鎌倉幕府ですが、その成立年はご存知1192年ですね?

しかし
 
えっ、違う?

1185年になった?

どういうこと?

 

などというやり取りが最近見受けられるようになりました、これが世代間ギャップという物でしょうか?

最近になって鎌倉幕府の成立年が変わったようです、因みに筆者は学校時代には1192年と学びました。

いい国(1192)作ろう、鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えた方はお馴染みでしたが、今の学校では1185年に変わっているようで、覚え方も「いい箱(1185)作ろう、鎌倉幕府」となっています。

ちょっと驚きですね。さらにWikipediaなどで調べてみると、どうも成立年は諸説あるようでいまだに論争が続いていることがわかりました。

鎌倉幕府の成立年は本当はどれが正解なのか、幕府の定義とは何なのか、詳しく解説していきます!
 

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鎌倉幕府の成立年に関する説

鎌倉幕府とは日本で最初に成立した武家政権のことです。創設者はかの源頼朝で、1333年までの約150年間の間は鎌倉時代と呼びます。

その鎌倉幕府の成立年に関してですが、現在の日本史の教科書では成立年は1192年ではなく1185年であるという説を採用しています。

その理由は、源頼朝が全国に守護と地頭を置き、鎌倉での支配体制が確立したからです。

1185年、兵士(原文ママ)の滅亡後、頼朝の権力の強大化を恐れた法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍勢を京都におくって法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当り5升の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実験を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、最後国もおよぶこととなり、武家政権としての鎌倉幕府が成立した。

引用元:『詳説 日本史B』(山川出版社)

※なお、上記で「兵士」とあるのは「平氏」の間違いだと思われます。

これは高校の日本史の教科書『詳説 日本史B』の記載内容です。確かに1185年に鎌倉幕府が成立したという表現になっていますね。


じゃあ今まで習った1192年って一体何なのでしょうか?何の意味もない年かと言いますとそうではありません。

またこの2つ以外にも、鎌倉幕府が成立した年の候補に挙げられる年についても詳しく解説していきます!
 

1192年から1185年に変わった理由とは?

そもそも1192年と言うのは、鎌倉幕府の創設者である源頼朝が征夷大将軍に就任した年を指します。

征夷大将軍とは朝廷の令外官の一つで、もともとは蝦夷を征討する事業を指揮する将軍という職でした。


平氏政権と奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、平氏政権とは違ってあくまで朝廷とは独立した東国王権の実態を築き上げようとしました。

そこで注目したのが征夷大将軍です。

この征夷大将軍と言うのは、東方を征伐する職務を示すもので、朝廷の支配が及ばない奥州藤原氏の王国を制圧する意味でも絶好の地位と言えます。

また辺境常備軍の現地司令官と言う意味合いが強いので、在京する必要がなく事実上その地方では独立した統治権が認められることになります。

こうして鎌倉にとどまり続けて、京都の朝廷から公認を受けつつ一定の独立性を保持し、幕府を成立させたというのが一昔前の説でした。

 
これに対して1185年説というのは、壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだということも決定的だと言えますが、それ以上に諸国に守護・地頭を設置したことが最大の要因と言えます。

守護・地頭を設置したのは、逃げていた源義経を捕まえるというのが主な目的だったそうですが、それ以上にこの役職(役所)を設置することで土地の支配と国の警備を強化することもできました。

これを持って実質的に源頼朝を中心とする支配体制が鎌倉で確立したことから、「1185年を鎌倉幕府の成立年としましょう!」というのが現在の説になっています。


頼朝は確かに1192年の征夷大将軍に就任したのですが、当時としては政治的意味合いがそれほど強いものではありませんでした。

また頼朝が将軍を辞めて、その次の2代目頼家が就任するまでの間には3年間の空白がありますが、その間も幕府は機能していました。

このことからも征夷大将軍がいることが鎌倉幕府が存続するための必要条件でないことが伺えます。
 

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他にも説がある?

実は鎌倉幕府の成立年に関しては、1192年と1185年以外にも諸説あります。

主に考えられるのは以下の年号です。それぞれの年に起きた出来事も合わせて紹介します。

  • 1180年
  • 頼朝が鎌倉に入府した年、侍所を設置して鎌倉を拠点とする一大武家勢力が確立

  • 1183年
  • 寿永二年十月宣旨、後白河法皇が頼朝の東国支配権を承認、頼朝が謀反人立場から脱却し復職

  • 1184年
  • 公文所と問注所が設置されて政治機構が整備される

  • 1189年
  • 奥州を平定し内乱を終わらせる

  • 1190年
  • 内乱を終わらせた功績が称えられ、頼朝が右近衛大将兼権大納言に任命される

それぞれ順番に解説していきます!

1180年説

源頼朝が鎌倉に入府した年で、さらに侍所(警察や軍事を担う組織)と大倉御所を鎌倉に設置した年でもあります。

事実上「頼朝による武家政権支配が確立された年」という見方もできるので、1180年を鎌倉幕府成立の年である見方も強いです。

1183年説

この年にあった出来事は、後白河法皇が頼朝の東国における支配権を承認した「寿永の宣旨」です。

この宣旨の発布させた目的は、先に平安京に入った頼朝のライバルである木曽義仲(頼朝の従兄弟)を追い込むことにありました。

後白河法皇とは当時院政を敷いていた上皇ですが、約2カ月に亘って頼朝側と交渉し、最終的には頼朝の要求を認めた上で、その内容に不服の者は頼朝へ連絡して「淘汰させる」ことも約束しました。

頼朝による巧みな外交術による成果の一つと捉えられます。

実はこれまで頼朝は謀反人の立場だったのですが、この宣旨の発布と同時に謀反人から脱して、それまで対立していた朝廷と協調路線の度合いを強めていきました。

1184年説

この年は、頼朝が公文所と問注所を鎌倉に設置した年です。公文所と問注所とは簡単に言えば、指揮命令や訴訟事務、財政収取などを所管する機関です。


当時の日本は大規模な内乱が行われていましたが、その中でも民衆による訴訟事案は多数発生していました。

そこでそうした訴訟事案を処理するために、裁判所的な組織として公文所と問注所を鎌倉に設置しました。

1189年説

この年で東北の奥州藤原氏が滅亡し、長年続いた内乱を終わらせることが出来ました。

壇ノ浦の戦いで平家を倒し、西日本へも勢力を拡大させていた源氏にとってもう一つの敵が奥州藤原氏でした。

これにより東北も事実上鎌倉の勢力範囲となったので、鎌倉幕府が成立したという見方もできます。

1190年説

頼朝が征夷大将軍よりも上の地位とされる右近衛大将兼権大納言に就任した年です。

難しい漢字ですが、わかりやすく言うと“近衛大将”と“権大納言”という2つの職を兼任している形です。

両方とも日本の律令政治における高位な職の名称で、今でいう所の内閣総理大臣みたいなポストと言えます。


この職に就いたことで朝廷からも正式に認められ、鎌倉の統治機構も合法的となりました。

よって1190年説もかなり頷けるような気がします。


しかしこれだと、なぜ1192年に頼朝が征夷大将軍に任命されたかの説明がつかないですよね?

この統治機構で幕府が合法的になったなら、征夷大将軍に就く必要もない気がします。


これについても諸説ありハッキリとした事はわかっていません。

最も有力な説は頼朝が征夷大将軍に就くと、「朝廷から完全に独立するのでは?」と後白河法皇が危惧したためとされています。


征夷大将軍とは当時で言えば武士に与えられる称号ですが、これはあくまで

蝦夷を討伐するために作られた天皇の軍事代行者

という意味合いが強い職でした。


つまり征夷大将軍に就くと天皇から直接軍事を代行される、すなわち朝廷と匹敵するぐらいの権限を有するとされています。

頼朝はこの「天皇から直接軍事を代行される」という重要な意味に注目しました。

当時の朝廷の実権を握っていたのは、天皇ではなく実質後白河法皇ですが、既に退位した後なので形式上は天皇の方が上です。


「この役職に就くと頼朝の権限が大きく増して、朝廷の支配から脱し、完全に鎌倉が朝廷から独立してしまう。」という解釈ができます。

実際その後の室町幕府も江戸幕府も、征夷大将軍に就くことで正式に幕府成立と見なされていますね。
 

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鎌倉幕府成立年の定義が難しい理由

鎌倉幕府が成立した年の定義が1180~1192年まで諸説ありますが、なぜ未だに断定されていないのでしょうか?

理由は幕府と言う言葉の定義がはっきりしないことにあります。定義が曖昧なだけに、幕府が成立した年も不明確になるということです。

 
そもそも“幕府”と言う言葉が使われるようになったのは、江戸時代中期以降であるとされています。

故に鎌倉幕府だろうが、室町幕府だろうが成立したその当時に「新しい幕府が誕生しました!」などというフレーズを発した人はいません。

幕府と言うのは江戸時代の学者が後付け的な感じで定義した言葉で、征夷大将軍を首長としている点で江戸幕府と共通しているからこのように定義されたに過ぎません。

歴史書『吾妻鏡』には、当時の幕府とは征夷大将軍が住まう場所という意味で使われていただけのようです。

現在のイメージで言えば、総理官邸のような場所です。

 
しかし事実上の武士による政治機構が成立した年であるとは言い難いものがあります。

あくまで征夷大将軍に任命された年が1192年であるだけで、それ以前に守護・地頭を設置して中央とは独立した統治機構が誕生したのが1185年です。

その意味において1185年を鎌倉幕府の成立年とするのが、最も整合性が取れるというのが現在の学説になっています。

おまけ:日本で初の武家政権ではない?

成立年に諸説あることで注目を集めていますが、実は鎌倉幕府は日本で初の武家政権という定義も厳密に言えば間違っているとされています。

鎌倉幕府を成立させたのは源頼朝ですが、それ以前は源氏と平氏の2つの武士勢力が争っていました。

両氏の争いは平安時代末期から長い間続いていましたが、1160年の平治の乱が終わった直後に平清盛が武士として初めて公卿(日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位)に就いたことで平氏政権が誕生しました。

平氏政権は幕府という形で政権を確立したわけではなく、天皇の外戚という形でどちらかと言うと公家色が強く、朝廷の権力を直接掌握する道を選んだと言えます。

これも豆知識としてぜひ覚えてください!

まとめ

今回は鎌倉幕府の成立年についていろいろ解説してきました。

守護・地頭が設置された1185年説が採用されましたが、他にも1180年・1183年・1184年・1189年・1190年の5つの説があります。

いろいろな説があることも歴史の面白い点ですが、これほど説が多いとまた変わるかもしれませんね。


数学や物理のような不変的な理論と違って、歴史学というのは後世の学者によって様々な意見や説が出てきて変わることがあります。

2017年に放映された大河ドラマの主人公の井伊直虎も実は男だった?などという説が最近になって飛び出しています。

歴史学者からしたら調査する意義があるのかもしれませんが、学習する側からしたら統一してもらわないと混乱しますよね(+_+)
 

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